JunchanObachanのブログ

じゅんちゃんおばちゃんの夢日記

祖母のおはなし

おはようございます。

今日はお休みです。

先日、休みが変更になったとお話ししたと思いますが、結局元に戻ったんです。

というのは、昨日仕事が終わり帰ろうとしている時、休みを代わってあげた子から電話があり、明日は出勤できるという話をしているのが、近くにいる私にも伝わってきました。

電話している社員の人は、受話器を手で塞ぎながら「◯◯さんどうかな?」

と聞かれたので

「だったら、私が明日休みましょうか」

という流れでした。  

「振り回しちゃってごめんね」 

と言ってくれました。

私は

「例えば、明日家を出る直前に、今日は休んでと言われたらちょっと嫌かな…前日なのでそういう変更は全然大丈夫ですよ、予定もないし」と言いました。

それは本心です。やっぱり、出る直前とか、職場に着いてしまってから休んでともし言われたら嫌な感じだと思っちゃいますね。

今日は、外出は無しです。

この前の連休では、来客が有ったりしたので、今日はゆっくりします。

長いコロナ禍で、元々引きこもりの私は、その引きこもりにも拍車がかかったように思います。

人と会わなくても平気でいられる自分…

仕事を辞めたらどうなるんだろう。

市などで色々な教室も開いてますが、そこに行って気を使うのも嫌だし。

なんて、先のこと考えても仕方ないですね。


28日に姉と弟が来た時、祖母の話になり、それは私が今まで知らなかった事で、とても感動したので聞いてください。

祖母は私よりも60才くらい年上です。

83才で亡くなりました。

当時私は横浜に住んでいて、危篤と聞いて帰省して、祖母と最期の時間を過ごす事は出来ました。

でも、自分が若いという事もあり、お葬式にはどんな方が来てくれたのかも分かりませんでした。

姉と弟が、葬儀に来てくださった人の話を始めました。

「そういえば、おばあちゃん、昔川に流れた幼児を助けた事が有ったよね」

私はそれも知りませんでした。

話を詳しく聞いたら

当時私はまだ産まれていなくて、実家は別の場所の大通りに面した家で、裏に小さな川が有るのですが、そこまでが敷地だったようです。

庭の延長線に有る川で洗濯をしたり、鍋とか釜なども普通に洗っていた時代です。

家の側を流れる川は側溝にもなっていず、生活に密着していたんですね。

実際、わたしが小学生の頃、従姉妹の家によく遊びに行きましたが、川に板を渡した感じで普通に渡っていました。

子供ながらに、落ちたら怖いと思う事も有ったような気がします。 

そういう生活の中で

祖母は川を流れてくる幼児を発見して救い上げたそうです。

その川は、生活の一部とはいえ流れは結構早く、おばあちゃんが見つけなければ下流になると分かりにくかったと思います。

「その人、おばあちゃんのお葬式に来てくれていたらしいよ」

私は胸が熱くなってしまいました。

溺れた人は、自分ではその事は覚えていないはずです。

私も産まれていない頃ですから、祖母は40代くらいだったと思われます。

家族が

「命を救ってもらった」と、大人になってから伝えてくれたんですね。

その人は祖母の名前を覚えていてくれたんだ。そして30〜40年近く経った時、お葬式に来てくれる、それは凄い事なんだと思いました。

祖母は、咄嗟に必死で助けたのだと思いますが、その事を何十年も覚えていて、最期の日に参列してくださった、それは、中々できる事ではないと思います。

だって、ずっと覚えていてくれたという事ですよね。

自分も、そういう人の恩を、ずっと心に留めておく人でありたい。

会えなくなってもう30年以上。

「おばあちゃん、優しい人だったものな…」

いつも穏やかで、でも厳しいところはちゃんと厳しくしてくれる人だった。

家を新築する時、私と弟、姉は、祖母と数ヶ月間アパートで暮らしました。

その頃は、ほんとうに幸せでした。

弟とふざけていて窓ガラスを割ってしまった時、日頃優しい祖母にすごく叱られた。

祖母は、夜は真っ暗にして寝るタイプ。

布団に入ると

「今は真っ暗でも、目が慣れて段々見えるようになるんだよ」

日常の、学校では教えてくれないような知識は、祖母から随分学んだ気がします。

まさに《おばあちゃんの知恵袋》ですね。

ピーマン🫑が嫌いだった私と弟。

おばちゃんと暮らしている時に、甘辛く似てくれて、苦味も感じず美味しくて、それからピーマンが好きになったんです。

忙しかった母の代わりのような存在でした。

今になると、私が祖母を慕っているのはミエミエだったので、母に申し訳なかったなと思います。

その時の子供の自分には、母の立場の辛さは理解できなかった。

祖母は、亡くなって数年間は、よく夢に出てきて

「おばあちゃんはね、死んでないんだよ」

私にいつもそう言った。

最近は現れてくれない。

今の私を見たらどう思うだろう。

この話は私の子供たちにしてあげたいと思います。

子供達からしたら、会った事もない人。

でも、こんなエピソードを持つ人が曽祖母だと思ったら、嬉しいのかもしれないですね。

因みに、長男は私の祖母に顔が似ている気がします。

長男が生まれた年の4月に天国に行ってしまった祖母。

生まれ代わり、そういう事は不確かな事ではありますが、ちょっと信じたくなってしまう私です。


こうして祖母のことを振り返ってみると、色々な記憶が蘇ります。

昔の事なので、赤ちゃんをカゴに入れて日陰に置き農作業をした事。

その赤ちゃん(父の兄弟)が亡くなり、気丈にしていたようですが、鎌で手を切ってしまったこと。

私はその話を聞いたのは小学生くらいだったのか…

蝉が鳴いて日差しの強い夏の日、手ぬぐいを被って働く祖母、木の下には赤ちゃん

そんな光景が、見ていないのにハッキリと浮かんできました。祖母からは、そういう情景の説明は有りませんでした。

私が勝手に想像したんです。

《狐の嫁いり》の話も祖母から聞きました。 

ある時、山に仕事に行った人が、お天気雨のような状態になり山を下りようと思った時、木々の間を狐が花嫁衣装を着て行列の様に歩いていたのを目撃した、という話。 

その話を聞いたのは小学校高学年だったか…

子供ながらに眉唾物だと思っていた私。

何かの現象で幻を見たのだと感じていました。

勿論、祖母が嘘をついているなど微塵も思っていません。

祖母は、子供だからといって嘘をつく人ではないと分かっていたから。

でも、その話だけは、子供なのに割と冷静な私でした。

祖母はいつも、一生懸命生きてきたんだ。

その後、戦争も体験する事になってしまうんだ… 

関東大震災、戦争、その中を生き抜いてきた強さを、穏やかな祖母の内面を見た気がしました。

そういう、古き良き時代の、話をしてくれる人は今は居ません。

でも、これから先日の様にきょうだいに会った時、自分の知らない話を聞く事は出来る。

そういう時間を、これから作っていきたいと思いました。

7月31日 18時55分

夕焼けが綺麗でした。

拡大すると

優しそうな雲でした。

この下には、沢山の登山者の方が居るんですね。


今日は祖母のお話でしたが、昨夜、又両親が夢に出てきてくれました。

正装姿で、今回は内容を全く覚えていません。

両親の夢も暫くみていなかったのに…

お盆が近いからでしょうか。


今5時半になります。

全国的に熱中症アラートの予報が有るのに、こちらは今22度です。

信じられません。

日中は30度超えするとは思いますが。

降って沸いたお休みなので、先に述べたように、何にもしないことにします。

実は、ここのところ、長時間勤務できる残り少ない日々だった為、ハードでした。

そのせいばかりではないですが、首、腕、右 右足の脛と膝が痛く

「見た目何ともなくて痛いのは辛い」

心での呟き。

それでも、「動けるうちはいい」

とも思います。

流れる時間を、夢ちゃんとふたり、過ごしていきたいと思います。

皆さま、いつもほんとうにありがとうございます。