JunchanObachanのブログ

じゅんちゃんおばちゃんの夢日記

次男への想い、そして「すづお さばえ」さんへのメッセージ

私は3人の息子が居ますが、当たり前かもしれませんが皆性格が違います。親の思いは皆一緒ですが、今日は次男について思い起こします。

次男は物心ついたときから神秘的な子でした。長男とは年の差8才、誰からも可愛がれた存在でした。言葉を覚えるのも早く、4才前には車の車種を全て言えたと思います。

早生まれなので3才になったばかりの頃に幼稚園に入園。今となってはそれが後悔とも思えるのですが…

入園し1ヶ月した頃の家庭訪問で「まだ一度も声を聞いていませんよ」先生からの言葉も軽く受け流してしましました。だって、入園するまでの次男は、普通に会話をし、家族以外の人とも接していたので。

それが12年にも及ぶとは思いもしない事でした。

結果から言いますと、小学校では誰とも会話する事なく、中学では一部の人とだけ会話する、そんな、長きに渡る場面完黙だったのです。

幼稚園では、お迎えの後に園庭で遊んでいると「ねぇ、おばちゃん、なんで◯ちゃんは喋らないの❓」その子のお母さんに「ごめんなさい」と言われました。

保育参観の後のミーティングの時に、私は発言しました「喋らないのをなんで❓と言うのは、子供の素直な疑問だと思います、だからそれに対してゴメンなさいは要りません、ありのままでいいと思うのです」と言った時に、不本意にも涙が溢れました。何人かのお母さんも泣いていました。

幼稚園には歩いて通っていました。近所の幼馴染の子が次男と同い年で、いつも一緒だったのですが、私はそれも悩みでした。幼馴染は子供を全く叱らない人でした。 

ある日帰途の途中、その子が私の次男を突き飛ばして馬乗りになろうとしました。親は何にも言いません。私は見かねて「そういう事したら危ないんだよ」注意しました。叱られ慣れていない子はシュンとして、それからの帰り道、その母親はずっとおんぶして帰りました。

その夜です。我が家に幼馴染から電話が有りました。子供が吐いて救急車を呼んだって。直ぐに理解しました。私が叱ったせいで具合が悪くなったと言いたかったんだって。その日は週末だったので、園を休む報告も要らないし、電話をする理由が無かったから。

その子からは次男は虐げられ続けました。先生の見ていない所で虐めていたのです。

その事を次男は何にも言いませんでした。その他のお母さんから聞いたりして把握するしか手立てはなく。

私はある日次男に言いました「行きたくなければ休もう、休んでも良いんだよ」でも次男は休むとは言いませんでした。体調の悪いとき以外、幼稚園には通い続けました。

幼い次男の芯の強さを感じました。

そして、小学校2年の時に《ジューク》と出会ったのです。すべてへ、の歌詞は次男そのものだと思いました。


風が吹かない そんな場所でも

ぼくたちが走るなら感じる事が出来る

服だろう風  なんて待つなよ

無いものをなげくより くくればいい風だって

CDを買ってあげた事を、次男は学校の作文に書きました。

ジュークは次男にとって素晴らしい出会いだったと思います。

中学になると、服装が乱れました。極端にズボンを下げるのです。今まで何の主張もしなかった次男が、これだけは譲れないと言いました。私は、許せる所は許しました。

私なりの判断です。校則はギリギリ❓かもしれない、でも人に迷惑をかけてはいない。後になって次男は言ったのです「初めて自分がこうしたいと思った事をした時に、何だか違う自分になれた気がした」


私は常々子供に言い続けた言葉があります。もしも岐路に立たされて、例えば悪い事して逃げたくなった時とか、もう死にたいとか、そんな風に絶望したとき、お願いだからお母さんの顔を思い出して、と。

いつもいつも一緒には要られません、それが母の精一杯の願いだったのです。


幼稚園の時に次男をいじめ続けた子は、中学ではイジメにあって不登校となり、卒業式にも出席しませんでした。因果応報…私にはその言葉が浮かんでしまいました。人にした仕打ちは返ってくるのではないでしょうか❓


高校になってからも、皆勤賞の次男。でも、いつしか家に帰らなくなりました。電車で30分程の高校ですが、友達の家に入り浸りになってしまった。当時私は両親をその近くの病院に連れて行っていたので、じいばあが来たら帰るだろうと、近くのコンビニに車を停めて迎えに行った事も有りました。私の父の事は特に慕っていたので、じいじが居たら帰るかもと…無理でした。

その帰途、父は呟きました「いつか目がさめる時が来る」

もういつかも忘れましたが、私が迎えに行って帰る途中です。車の中で会話していたら、あまりにも反抗的な態度を取られ、運転しながら次男の頬を引っ叩きました。生まれて初めて子供を叩いたのです。当の本人は、正面を向いたまま表情も変えませんでした。

5才という年齢で幼稚園に行き通した意思の強さ、そんな次男はそれが長所でもあり、裏を返せば人の忠告は聞く余地が全くない危なげな所が有りました。

その後もぶつかり続けました。県外に行きたいのは分かっていたので、行くのは反対はしないけれど、それなりにお金を用意しないと、例えば1ヶ月家賃を滞っただけでやりくりができなくなるからね、何度も言いました。見切り発車して、私の知らない所で会社を辞めて行ってしまったのです。


私はたまに夢を見ます。次男が雪に埋もれているのです。私の心配する気持ちが見させる物だと分かっていても、次男の事はいつも心配です。

今は離れてしまっているけれど、母はどんな時もお前の事を思っている、それだけはわかっていて欲しいと思います、と言うか、きっと分かっていると思います。


何日か前に、すづお さばえさんのプログで娘さんの学校での事を知り、直ぐにでもコメントしたかったのですが、私自身も聞いてほしいことがたくさんあって、あえて自分のブログからメッセージを送らせていただきました。

でも、私の経験が助けになるかは分かりませんが。

でも、これだけは言えます。親はいつでも、子供の為だったら何でも出来ると思います。そんな思いが子供には伝わるんだと思います。

物語だったらハッピーエンドでありたいと思います。

でも、人生は続いて行くので、ハッピーになった後にも生活はある訳で。すづおさんのお子さんが健やかに成長しているのがとても嬉しく思います。

私はこれからも、天然なお母さんで行きたいと思っています。

そして次男が、いつかは帰ってくると信じています。