私は幼い頃、母が好きではありませんでした。父親が事業に失敗し(それはずっと大人になってから知るのですが)狭い家に引っ越して、両親は必死で働いていたので、幼い私と弟の面倒は祖母がみていたのです。
幼稚園の遠足なども祖母が一緒に行くのが当たり前でした。
なので私にとっては祖母が母親という感じでした。祖母はとても優しくて穏やかな人だったので尚更だったのでしょう。
父は兄弟が多く、長男の上に父親が早く亡くなったので、年の離れた兄弟にとっては父親のような存在だったと思います。
そんな父と結婚した母は、何かと苦労が多かったのだと、今の私だったら理解出来ます。
でも、当時の幼い私は、自分達に対して優しい言葉をかけるでもないそんな母は苦手だったのです。
母はきっと余裕が無かったのだと思います…
手先が器用なので、仕事以外にも家にいる時には、着物とか綿入れを仕立てていました。
幼い私と弟は、面白半分に手伝ったりしました。
綿入れを作る時には綿の上に真綿を載せていました。針仕事をしていた母の姿は今も覚えています。
或る日私は、知らないうちに泣いていました。多分寝てしまって、気付いたら泣いていた感じでした。
私は祖母を呼んでいました。
祖母はそばに居たのに、仕事中の母を呼びに行って、戻ってきた母に叱られた記憶があります。
その頃の母は疲れていて、そして不器用だったのでしょう。
そして、突然時代が飛びますが高校生の時。
部活で平行棒から落ちて右肘があり得ない方に曲がってしまい骨折。
ギブスで帰宅して、2階の部屋に寝かされて、その夜のこと。
金縛りにあって必死に振りほどいて目を開けたら、私の目の前には顔が見えました。
笑っています。
頭を東側にして寝ていたのですが、そちらの窓の方から何百という丸くて白い物が西に向かって流れていくんです。
その時私の瞳は完全に開いていました。
我に返り助けを呼びました。大きな大きな声で。
姉が来たけれど異様な空気を感じて中に入って来れません。
母がやってきて、なんと言ったか…
多分しっかりしろ!!みたいな言葉だったと思いますが、私の頬を叩いたと思います。
あとで姉が
「あんな風にしか出来ないんだ」
と母を非難したと思います。
中学3年生の夏休み。
それは私にとってとても思い出深い時でもありました。
家を新築するので、兄弟と祖母は実家から徒歩30分くらいのアパートで生活していました。優しい祖母と一緒の日々は楽しかったです。両親は新築している近くにプレハブみたいなのを建てて2人でいました。
ある夜に、母が訪ねてきました。
私はうたた寝をしていました。
その時に、ある感触を感じました。
おくれ毛を私の耳の後ろに持っていくのです。
何度も何度も優しく撫でるように。
薄眼を開けると、正座した母の足が見えました。
私は、ずっと寝たふりをしました。
その時の私の髪は腰のあたりまでありました。母が絶対に切らせなかったのです。姉の髪は短いのに、何故か私だけ切らせなかった。物心ついた時にはもう髪が長かった感じです。
私の小中学時代は、三つ編みの女の子、同級生はそう感じていると思います。
高校になって、体操の時に邪魔になるという理由でバッサリ切ってしまった時、母はずいぶん寂しそうでした。
先週、深夜に介護施設から電話がありました。母が苦しいと言っていると。
肺に空気を送る機械を使っても改善せず、ミオコールというスプレーもダメで、結局救急車で運ばれました。
以前から心房細動と診断されています。
それ以降、私は主治医と話すタイミングが無かったのですが、弟は
「会いたい人には会わせておくように」と言われました。
今ひとりで頑張っている母。
色々な事を思い出した夜でした。
今ならわかる、母がとても私のことを可愛いと思ってくれていた事(顔がではありません)祖母が大好きな事にヤキモチを焼いたのだと、そして、私達子供に対して意地悪だったのではなくて、ずっとずっと私達の為に頑張ってきたのだと。
明日は長男とふたりで面会に行って来ます。 こうしている今も、そして車で向かうときも、考えてしまうと涙が出てしまうのですが、母の前では笑顔になれます。
「夢ちゃんは元気か」
そんな風に聞いてくる母。今日は久しぶりに秋の空でした。富士山も凛々しい姿です。
明日母に見せようと思います。
病室からは富士山が見えないから。夢ちゃんも元気です。
本当は連れて行きたいけど、病院にはワンコは入れないから残念。
寒さもこれからは駆け足でやってくるでしょう。
私は、母が又自宅に帰って、私の作ったものを食べてくれると信じています。
落ち着くまで、皆様への訪問もしにくいかもしれませんがお許しください。