JunchanObachanのブログ

じゅんちゃんおばちゃんの夢日記

喪失感

喪失感、私は何度その言葉を経験しただろう…
これまでの自分の歩いて来た道のりを振り返ると、何度か有った気もする。そしてそれは結構引きずっており、何度も夢にみてしまう。
一つ目のそれは二十歳の頃に、単身横浜まで向かって受けた企業の中途採用
それは、まだ残暑の残る9月の事だった。
4歳年上の兄に、電車の乗り継ぎとか教えてもらって朝早くに家を出て、都合横浜には2回行くことになった。
降り立った関内の駅。
1度目は面接の願書を出しに行ったのと、2度目は正式な試験の為に。
筆記試験と面接。当時は三公社五現業の一つの企業であった。
あまりの人数に圧倒され、しかも1人で県外に出た事も無かった自分は、その試験が終わった後に高熱を出して寝込んでしまった。
出し切ったという思いは有ったものの、試験の結果が届くまでは悶々とし、9月も終わる頃に届いた封書には合格と書かれていた。
そこから私の、今思えば輝かしい時間が始まったのだと思う。
採用の後に、前期と後期に分かれて訓練が有り、それは原宿の宿舎。
配属された局に行くまで、分厚い参考書を渡されて、猛勉強、試験も有るので遊んでいる暇は無し。
けれどここで私は、寮の同室となった福島の子と出会う事となる。
その子は、歌手のりりぃさんに良く似たエキゾチックな美人。
横浜では色々な人達に出会うことが出来た。
私からしたら凄い都会に住んでいるのに、面倒見よくて優しい先輩達、寮生活をしていた時の色々な出逢い。
今でも私は、あの頃に戻って、優しい人達に囲まれて仕事も遊びも充実した日々の夢をみてしまう。
寮で同室の子と「人生で今が一番楽しいんだよね」耳年増だった2人は、冷静に分かっていたんだ。
これから結婚とか、色々な時間を重ねて行く上で、幸せな時間は勿論有るけれども、自分の事だけ考えて遊んでいられるのは今だけ、そう思っていた。
その子は結婚し出産してからその企業を退職した。
内心私は羨ましいと思ってしまった。
けれど、その企業は福利厚生が素晴らしく、産休も今は分からないけれど当時は3年まで取ることも出来た。
私は復職するつもりでいたのが、長男が産休中に2ヶ月近く入院する事となり、退職を選んでしまった。
その後家庭が破綻して横浜を去る事になってしまい、今も私は横浜の土地に対して何か置き忘れてしまった様な思いに囚われてしまう。
懐かしさと、切なさ、愛しさ、そして喪失感。

そして、今私が何故喪失感という言葉を口にしたかというと.
今月の8日に入院した友達からの
「家を失った喪失感に襲われている」
という言葉。
それが心に引っかかって。
喪失感というのは誰にも有るだろう。
彼女は、病が悪くなって入院している今、家を手放した喪失感に襲われている。
こんな私でも今でも引きずっているのだから
病を抱えた彼女にとっては本当に辛いものだろう。
頑張って頑張って手に入れた我が家、病の為に(それだけが原因では無いだろうけれど)手放した事が今でも心を痛める原因に。
会った時に見せて貰った家には、庭にレモンの木が植えられて、室内はロココ調の家具で統一されて、我が家とは格段の違い。
こちらに越して来てからアパートにお邪魔した時に、大きい物は処分したのだろうけれど、家具の一部にロココ調の物が有って、私自身も何だかしんみりした気持ちになってしまったのを覚えている。
自分自身も、2年間に3回引越しをした経験を持つので、全てを残すことは出来ないと分かっている。
思い出の品を残す間も無く転居して、今でも心残りな物もある。 
そんな時に私は、こんな風に自分を慰める。脳裏には全て残っているからと。
あの、横浜で過ごした日々、エキゾチックな街並み、コンビナートの夜景の素晴らしさ、形として残らなくても、私の中には鮮明に残っている。
港から吹く風の匂い、あの坂道の公園…
自分は確かにそこに居たのだ。

私は、彼女の自宅にはよく遊びに行ったけれど、九州はあまりにも遠くて、そこだけは訪れる事が出来なかった。
なのでそこで彼女がどんな生活をしていたのか知る術もない。
夫婦での新しい出発の地だった場所が、病に苦しむ日々になろうとは思いもしなかったろう。

彼女は入院して2週間。
個室なので携帯も許されてテレビも有るようだ。
入院の経緯は、自殺企図(こんな言葉が有るとは知らなかったけれど)が強いので、と、本人は語っていた。
初めて目にした言葉でも、文字を見れば理解できる。
死ぬ事を企てる事…なんだろう。ネットで調べたらその様な意味合いであった。
そして未遂となると、実行してしまったけれど助かったという事。
彼女の文章には企図《キト》と言う言葉が普通に
並んでいる。何の違和感も無い様に…
私1人しか知らないと思っていたあの計画は、医師も知っていた、当たり前かもしれない。
けれど私には当たり前ではなくて、自分1人に告げられたと思い込んでいた命に対する言葉を抱えきれずに悶々とした。
これがそういう病の人と付き合う事なのかもしれない。
彼女は九州に行く理由の一つを
病室からのラインで「九州でのたった1人の友達のところに逃げたかった」と表現していた。その人は同じ病を抱えていて入院中に知り合った人らしい。
旦那さんの縛りが嫌だとも。
私はそれらの言葉で又考えてしまう。
私の所に逃げて来たら受け止められるのだろうか❓
あの旦那さんは、心配しているだけなのに束縛と捉えられてしまう、気の毒だ。
いつかhappyさんがおっしゃっていたと思う。病が言わせてしまう事もある、それが精神的な病の怖さなのだと。
「こんな病気でなければ自立して、自分でやっていけるのに」
看護師の資格の有る彼女からはそんな言葉も出てくる。
いくら企業で頑張っても辞めてしまったらただの人。
私の実体験かもしれない。企業で積み重ねた努力は辞めたらゼロである。
でもその都度、経験がない仕事にしてもその時の自分の状況で出来そうな仕事を選んで来たつもりでいる。
向いてるとか、好きとかは二の次だった。
しかし彼女は、仕事を辞めても看護師である。そんな思いは有るのだろうし、私に対しては純粋な気持ちで
「じゅちゃんは頑張って来たね」と思ってくれている、と思う。 
幼い頃から憧れて、医療に対して興味が有り、努力して得た資格。
それを今の自分は生かす事が出来ないし、家も失った。
自分の喪失感と比べてはいけないけれど、彼女の喪失感は病と闘いながらの思いなので辛さがプラスされてしまう様に思う。
私の中には郷愁の様な思いもあり、夢に見て目覚めた時は、時間は戻せないと言う切なさは有るけれど、辛さみたいな物は無いといえる。
時間の流れを思うと、何年早くなって行く気がする。
二十歳過ぎのあの頃は、全てが未知数で自由だった。同じ1日でも変化の度合いが違うのだろう。
今の自分は単調、通勤電車に乗ることも無く、故郷の道路を運転して勤務先との往復。 
でも、何年後かの自分に褒めてもらえる自分でいたいと思う。
そんな言葉で今日は締めくくりたい。
喪失感を感じる物はまだ沢山あるけれど、長くなってしまったのでこの次に。

そして、お気付きかと思いますが今日は文体がいつもと違います。
長くなるので簡潔な文章にしたつもりですが、紛れもなくじゅんちゃんおばちゃんです。