JunchanObachanのブログ

じゅんちゃんおばちゃんの夢日記

医師との別れ

もう10年以上前にになってしまいました。

父と母は車で1時間くらいかかる、市を3つ程離れた病院に通院していました。 

母が何度か総合病院に入院した時の主治医が開業したからです。

その時は診てもらうのは母だけで、父は運転手です。

何年か経った時に父が体調を崩して総合病院を受診した所、内科の医師は袋一杯の薬を処方しただけでした。

何日かしても回復せずに、父は「食事をしても砂を噛むような感じだ」

と言っていました。

母の受診予定が近かったので、自分も一緒に診てもらった所、軽い脳梗塞だった事が分かりました。

それ以来父もこの医師に診てもらうようになりました。 

でも、軽いとはいえ脳梗塞を暫く放っておいた訳で、左足の土踏まずが少しですがちゃんと床に付かなくなってしまいました。

その頃から、悲しいくらいにヒタヒタと、老いが父に忍び寄って来たような気がします。

それは…今思えば、ですが。

父はとてもプライドが高い人なので、日帰り出来るデイサービスを勧めましたが、首を縦に振ることは有りませんでした。

私達も無理強いはしたくなかったのです。 

でも、その現状よりも良くなることは無くて、段々周りの負担は増えて行きます。

特に、常に一緒に居る母が大変だったでしょう。

私は、お金をおろしに行ったり、買い物、食事、2人の髪のカット、病院、などをやっていました。

でも、今思い起こすと、あの頃が一番幸せだったのかもしれません。 

実家で暮らしていた頃よりも会話が増えて、両親から昔の話とか色々と聞くことも出来て、でも、内心、少なくなった父の髪をカットする時、いつまでもこうやってこのまま続いてくれたらいいのに…

そんな願うような思いでした。

ある日父は、デイサービスに行くと突然言いました。

きっと周りの負担を軽くしたいと思ったのでしょう。不本意だったでしょう…  

その流れで、父は通院している病院の近くにある介護施設にショートステイという形で数ヶ月単位で入所する事になりました。

私は曜日を決めて通院の日は父をその施設に迎えに行って、診察を終えるとそこに送るような形になりました。

そういった施設は長くいる事が出来ません。その間に別の所を探さなければならないのです。

次に入所出来たのは、医師も居てリハビリもやってくれる所でした。

私は父の事をよく診てくださったあの医師に続けて診て欲しかったので、自分達で連れて行くのでそこまで通院する事は出来ないか頼んだけれど答えはノーでした。

常駐の医師が診るのが決まりなのです。

父はあの先生のお陰で命を救われたと思っていました。

最後の診察の日、先生に経緯を話して、多分商品券だったと思いますがお礼を渡しました。

「〇〇さん、頑張って下さいね。そして、もしも何か有ったらいつでも来てくださいね。」そんな言葉をかけてくれたと思います。

母は、その1年ほど前に深夜救急車で運ばれて、その流れでその総合病院へ通うようになっていたので、その時点でその医師に診てもらっていたのは父だけでした。

 

思い起こせば、その先生と両親との関係は医師と患者を超えていたと思います。

通常だったら医師にお中元、お歳暮などあり得ないと思います。

両親はずっと続けていました。

だからといって優遇してもらおうなどとは思ってもいなくて、先生の方も、他の患者さんと何ら変わりなく接していました。

出会いは病院だったかもしれないけれど、両親と先生は個人的な関係になっていたんだと思います。


その別れが桜の咲く頃。

その一年後、私達はその医師の訃報を聞く事になるなんて思いもよらない事でした。


先生は父と再会を約束した時に、既に病魔に侵されていたのではと思います。

その数ヶ月後に東京の病院に入院したと聞きました。

でも、先生は最後まで患者を診ていたそうです。

母の通っている介護施設にその医師のお姉さんが勤務していて、先生の最期とも言える日々を私達も知る事となったのです。

父とのあの別れの日、先生が再会を約束したのは、自分の願望でも有ったのか、と思いました。


今、父とあの医師は会えたでしょうか❓

「〇〇さん、偉いですよ。僕よりも2年も長く生きたじゃないですか、頑張りましたね。」

そう言ってくれているような気がします。


先生、先生のお陰で父は最期の日まで穏やかに過ごす事が出来ました。

もう直ぐ桜の季節がやって来ます。

先生とお別れしたあの季節。

今もあの診察室に座って、優しく微笑んでいた姿を思い出します。